たぶん、これが好きって


   001:きみとなら何も怖くないって、ずっとそう思ってた

 空の星は遠く遠近感さえ狂う。空自体が一枚の天幕であるかのように奥行きも広さも感じさせない。瞬く星は針で開けた穴のように小さくて、けれど日に透かせば見えるような確かにそこにあるものだ。気付いてしまったらもう意識にこびりついて離れなくなって、あっという間に占有される。目立たない気付かないと言われてもそれが大部分であるかのように気になって、喉に刺さった小骨のように忘れることさえもできない。微風に髪がそよいだ。起伏のある国土であるから全くの無風というのは案外ないものだ。卜部が背を向けている道場の位置であればなお風の影響は受ける。身を翻して向きを変えると枢木神社を睨む。直接睨みつけてやりたいがそうする気概もないのですぐに空を見た。なんとかと煙は高いところがお好きだそうで。神社ってものはどうしてこう階段が必須なのだろうかと思う。疲れる。それでも息を切らせて上りきれば景色に目を奪われるのだから己の程度も知れている。
 軽やかな靴音がして卜部が顔を向ける。道場で教えている藤堂が追いついてきた。藤堂が開く門扉は広く、教えを乞いたいと願い出れば年齢や時間の許す限り相手をしてくれる。悪童だけでなく大人の相手もこなしてくれる藤堂は人の好さで帰宅時間はいつも夜半だ。道場では亜麻色の縫いとりが見える道着に紺袴と和風な藤堂だが冬場と言う季節をわきまえて外套に襟巻の出で立ちだ。片手にはきちんとまとめられた道着が紺青の景色の中でぼうと白っぽい。
「家で待てばいいと言うのに。寒いだろう」
「じゃあ道場の窓という窓開けないでくださいよ、寒いっすあれ」
卜部が言い返して襟巻へ顔をうずめる。藤堂は笑いながら空気が淀むだろうと当然の顔をする。藤堂の黒い外套は闇へ融けるようだ。藤堂の真似をして卜部も外套を新調する際は似た色を選んだ。藤堂が選んでくるものは質が良くて、卜部などが見つけ出す範囲ではどうしても微妙な差が出る。質感や風合いが違う。似せることはできて同じには出来ない。でもそれが己の分であると卜部はどこかで安堵している。藤堂と同じものなどおこがましいとどこかで思っている。
 「何か飲むか。小銭が少し」
お仕着せに設置されている自動販売機に藤堂が隠しを探り出すので卜部は慌てて要らないと言った。藤堂はきょとんと灰蒼を瞬かせたが、そうかとおとなしく引きさがる。引き留めるために近づいていた卜部の襟巻を藤堂の指が素早く下げた。入り込む冷気に怯む卜部の唇に吸いついてくる。ろくな手入れもしていないので気持ちよくないだろうと思うのに藤堂はついばむように何度か唇を合わせた。ポケットから出た卜部の袖口からも冷気が入る。芯まで沁みるような寒さに身震いすると藤堂の吐息がふふっと笑って体温が離れていく。
「つめたい」
卜部は藤堂を追いながら口元や耳まで襟巻で覆った。先を歩く藤堂は颯爽と舗装されていない道を歩く。長い外套の裾を上手くさばいて歩く。ひらひらとめくれないあたりに質の好さや藤堂の上手さが見えるようだ。藤堂は和服を着ることも多いから気を配る範囲が広い。手入れに余念がないかというほど入念ではないが身だしなみとしての基準は高い。気の持ちようや在り様として藤堂を真似てもすぐに音を上げる羽目になる。生まれついてのものであると指を咥えているのが一番安全だ。
 先を歩く藤堂は後ろを振り向かぬのに卜部が追い越したり追いつけなかったりするようなことはない。卜部はすぐに追いついて歩調を合わせた。
「そう言えば道場にくる女の子がな」
「藤堂先生大好きとか言われたンすか」
藤堂の人望は広く篤く、性別さえ問わない。門下生の中には少数派であっても女性が顔を出す。
「いや、そうではない。ただ、見ているとな…好きな子への告白を、たきつける子と躊躇するタイプの子がいて」
諍いを起こすから訳を聞いたんだが。好きであれば好きだと言わずに何とすると勇ましいのも、好きだと告げて嫌だと言われたら辛いと怯むのと、いてな。藤堂の声が愉しげだ。心地よい低音であるから卜部も殊更咎めずに聞いている。積極と消極が存在するのは子供でも女でも変わらないんだなと妙に感心した。
「少し気持ちが判るなと、思っただけだ」
どちらの、とは卜部の疑問だ。
 藤堂と卜部は互いの想いを伝えているしそれがどのような分類であるかも互いに承知している。自宅に上がらせたし上がり込んだ。合鍵も交換した。不必要に干渉しない性質であるから今のところ実害はない。眉を寄せる卜部に目をやった藤堂はふふと笑う。灰白の襟巻から吐き出される白霧がきらきらと煌めく。ダイヤモンドダストより気弱な煌めきはそれゆえに強い。藤堂の鳶色の髪の毛先は闇へ融けた。触れていない卜部には藤堂がとてつもなく長い髪であるようにもとても短くしているようにも見える。

「好きなものがいればなにも怖くなかった。そう思っていた」

振り向く藤堂の外套の裾が軽やかに翻る。手脚ででもあるかのように藤堂の動きに合わせてひらめき夜闇と黒の混色を成す。黒と紺青の濃淡の微妙な差が卜部の視界で踊る。灰白の襟巻はそれ自体発光しているように浮かび上がる。藤堂の灰蒼の瞳と呼応するようによく似合った。
 「お前が私を想ってくれたなら何も怖くなどない、すぐにでも死ねるとさえ思った。だがお前から好きだと言われてお前の想いを獲得した私は、絶対に死にたくないと、浅ましく、思った」
藤堂の灰蒼が眇められる。冷たい夜気に双眸は湖面のように揺らぎ、水輪のように影響が及ぶ。
「浅ましく醜い。それで、も。醜態をさらしてもいいから私はお前のそばでお前に想われていたいと、願うようになってしまった」
それ、は。卜部が何か言おうとして唇を開き躊躇するうちに藤堂が仕草で卜部を抑える。卜部がためらった間隙を縫うように藤堂が音を紡ぐ。
「消えたくない、けれどもしそれがお前のためであったなら。お前の利になるために私が死ぬことは、ちっとも怖くなく、なった」
卜部の眉がひそめられる。
「青臭いことォ言いますねェ」
はん、と鼻を鳴らしながら卜部の裡ではどす黒く夜より黒くて闇より重いものが渦を巻く。肩を張ったり背を反らしたりしたら皮膚の薄いところからその醜く黒いものが溢れてしまうようで、卜部は寒さに肩をすくめるふりをして口元を襟巻に深くうずめた。藤堂が死ぬなんて考えられない、でも死んでもいいとさえ言ってくれるなんて。嬉しい。哀しい。――俺は、弱い。
 ひょうと空を切る音がして卜部が目を上げると猫のようにしなった藤堂の手が器用に卜部の襟巻をはぎ取った。減紫と丁子で緩やかに格子を組んだ柄が夜闇の中で踊り、藤堂の手の裡へ収まる。途端に刺すように冷気が卜部の襟から侵入してくる。痛いのか冷たいのか震えを呼ぶ刺激であるのに感覚さえ惑った。
「…――ッさみぃし! 返せッ」
粗雑につきだす卜部の手から藤堂は逃げる。ポケットから出した袖口からも冷気は入る。襟刳りの狭まった服を外套の下に着ていても耳裏や頤が冷えれば寒い。
「返せって」
卜部と藤堂は揶揄するようにかみ合った動きを見せる。藤堂は卜部の動きを読むかのように軽やかでそれは踊っているかのように淀みや躊躇はない。
「お前は私などを好むことを後悔したことはないのか。好きになると言うことは、強くなれる。だがそれは同時に脆弱さえ纏う」
「俺ァあんたァ好きだし嫌いになる気は当分ねェですよッ! どうせよェえんだから今さら隠しやしねェだけだッ…――いいから襟巻返せッ!」
卜部が伸ばす腕はことごとく空を切る。じりじりと焦れる卜部に対して藤堂はどこまでも冷静だ。卜部の吐き出す息が凍る。体を動かしてもやはり寒い。
 起伏のある国土は風と同時に冷気や雪雲さえ運ぶ。地域によっては水中や地面の方が温かいときさえある。外気は案外寒暑に弱くやり過ごすのに難渋する。日が昇れば暑いし沈めば寒い。だが刺すように痛い吐息の煙る寒気は同時に澄んだ夜空を保証する。天体観測に毛布や上着は欠かせない。腕や脚を擦りながら見上げる夜空は永久に続くように美しい。
 騙しをかけて空いた手をひらめかせた卜部の片手が襟巻をとらえた。そのままぐいと強く引けば藤堂はあっさりと手を離す。夜気で踊った襟巻は冷たくて剥き出しの頸部に巻くのを一瞬躊躇した。卜部が躊躇している間に藤堂が踏み込んできてなんの拘束もなく卜部の唇を吸った。卜部の外套の襟に添えただけの指先はさらされた外気に冷えている。卜部が抑える間もなく離れて冬空の冷気の中で走りだす。卜部も襟巻を掴んだまま追った。吐息の湿りが乾燥した冬の空気にみるみる消えていく。藤堂は負荷を感じさせない足取りで駆けていく。外套の裾が翻る。襟巻がはたはた揺れた。

「鏡志朗ッ」

振り向いて脚を止める藤堂を、突き飛ばすような勢いで卜部が引き寄せて唇を重ねた。藤堂の指先が応えるように卜部の髪に絡んだ。卜部の髪は黒蒼だ。緑の艶であったなら黒髪の美称であったのにと幼い時は惜しくも思った。髪は汚れたり荒れたりするほどに蒼い艶を深めた。神経質に洗えば荒れると聞いて手入れの間隔を迷う。今は身だしなみを優先している。禿げたら困るが今のところ兆候はないので良しとする。
 卜部の指先は藤堂の鳶色をかき乱す。特に染髪もしないのに藤堂の髪は黒ではないのだ。双眸が灰蒼であることにも関係しているのかもしれない。生物学に強くない卜部は染色体の情報など読み取れないから受け入れるだけだ。藤堂の凛とした眉筋や通った鼻梁。鋭く威嚇するような眦や引き締まって閉じたままのことも多い唇。卜部の指先が確かめるように藤堂の顔を這った。卜部の指が藤堂の襟巻をかすめて弛める。藤堂がふぅと白い息を吐きながら笑う。卜部が離れたのを追うように吸いつく。開いた歯列へ藤堂は舌を圧し入れた。逃げる卜部を絡め取る。
「んッ――……ぅんッ」
びくびくとすくむように卜部の体が震えた。藤堂は知らぬふりで卜部の口腔を貪る。発端に有した卜部の優位は疾うにない。藤堂は舌先一つで卜部を翻弄した。
「は、ふ…ッ」
離れたすきに息を吸うと肩が揺れた。互いの吐息は白く凍って消える。凍える寒空であることを卜部は失念していた。藤堂は知らぬ不遜さで冷たい指先を頬へ這わせて引き寄せようとする。冷たい藤堂の指先は刺すように痛みさえ帯びる。だがそれは激痛というほど拒否したくなるようなものではなく、許容できる範囲の微痛だ。痛みは痺れにも似て拒むのを忘れてしまう。
 「巧雪」
藤堂の声は静かだ。鈴や鐘のように体へ沁みとおるように響く。不快な甲高さも聞きとりづらい低さもない。発音は明瞭で声も通る。道場で通る藤堂の声は和太鼓などの打楽器のように友好的に腹へ響く。
「人を好きになれば怖いことなどなくなると、聞いていたのだが」
藤堂が笑んだ。唇を弓なりにかたちどり紅色が薄まるように色を変えた。澄んだ頬や潤んだ灰蒼が息づく。
「お前に嫌われることが怖く、なった。お前が私を強くするが弱くもする。でもお前を嫌いになんてなれない」
恋であるうちは人は強いのだと思う。恋は一方的なもので相手の働きかけを必要としない。それでもそれが愛に変わる刹那にそれは拒否という選択肢を含み、それゆえに脆弱を孕んだ。愛は方向性を問わない。与え与えられる。だからこその拒否や拒絶があり、恋の告白は愛への変貌だと卜部は定義した。だから好きじゃないと拒否できるし応えられないと謝罪する。片恋は楽しいとは恋愛小説を読めばその辺に転がっている。

「だがこの恐怖に脅かされても私は、お前を好きでいたい」

報奨のない愛なんてない。相手が好いてくれればこそ、自己満足という歪みをあてがってさえ、愛には報いがある。それでも卜部は藤堂が紡ぐ幼いような未熟な愛をはぐくみたいと思う。未熟であれば育み、足りなければ補い、欠ければ足したいと思う。藤堂が卜部の方を向いていてくれることだけで生きていけると思う。
 藤堂の腕が卜部の腰に絡む。外套の上からであると言うのに裸身を抱きしめられたように卜部が怯む。卜部の戦きを藤堂がクックッと笑う。むっと不満げに鼻を鳴らす卜部を藤堂は慈しむように見上げた。藤堂も長身だが丈は卜部の方がある。水面のように揺らめく藤堂の灰蒼は仄白い。
「うらべ」
唇が紅く熟れたように照る。舐めてさえいないのに潤みを保ったそれは柔らかそうにそこにある。その唇が卜部のそれをとらえて吸う。息を塞がれたように卜部が喘ぎ、それを揶揄するように藤堂はついばんだ。

たとえ弱さを孕んでも
「卜部、お前が私を、強くする」

抱きしめてくる腕に卜部は体が軋むような気さえした。抱きしめられて砕けてしまってもかまわないと。抱きしめてくるこの温もりは本物であるからたとえそれで己が滅んでも構わない。それがきっと好きだと言うこと愛していると言うこと。卜部は藤堂に滅ぼされるならそれで構わないと思った。
 藤堂が抱えているものはひどく大きくて卜部には把握しきれなくて、それなのに藤堂が卜部に基準をおいてくれるなんて、なんてすごい。なんて、嬉しい。なんて、愛しい。
「はは、何も怖くないなんて、嘘だと、思ってた」
喉を引き攣らせて笑う卜部に藤堂は無垢な灰蒼を向けてくる。
「好意は人を、強くする」
儚く笑う藤堂であるのに、とても強く卜部の意識に灼きついた。藤堂の笑顔が、声が、目の潤みでさえも卜部の意識に酷くきつく鮮明に。もうきっと忘れられないくらいにはあなたを想う。

藤堂が顔を伏せようとする卜部に抱きついて唇を重ねた。
「お前は私を強くした一因だ」
卜部の喉が唇が震える。あぁもうそれだけで俺は。

「お前がいてくれたから私は強くなれたんだよ」


死んでもいいと、何も怖くないと、思う。


《了》

やっぱり卜部さん受けは楽しいな!(ちょwww待てwww)            2011年1月2日UP

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